2012年09月16日

涙すら出ない

身近な存在を喪うということはとても大きな欠落を生み出すものだということを、思いました。

オレは数年前に父様を亡くしているのですが、その時オレは何も感じることができなかった。
父様を喪ったという自覚すらわかなかった。。
なんか、またどこかでひょっこりと顔を出してMGS談義かユダヤ教について語り明かすことがあるんじゃないかという錯覚にとらわれる。

だけど、それは正しい反応じゃない。

身近な存在を喪うということは、そこにあったはずのものがなくなってぽっかり穴が開くはず。

その穴が見つからなかった。
いや、なかったことにしたいのかもしれない。

また会いたいとは思う。
だけどそれは父様がちょっと遠い旅に出かけただけで、すぐに帰ってくるんじゃないかという思いがある。

大切な人、家族、ペットを喪うということはどういうことなんだろうか。
実家も2匹猫を飼っていて、2匹とも死んだけどその死に目には会えなかった。
だけどその時もああ、死んだんだ・・・程度の認識でペットを喪った時の喪失感は感じなかった。

それは異常なんだろうか。
感情がマヒしてしまっている。
うれしさも悲しさも怒りも楽しさも感じない。
ただ、あるがままに流されるだけ。

だから涙も出なかった。
ただ呆然と立ち尽くすしかできなかった。
ばーさまが「息子を失ったものの気持ちがわかるか」とか言ったらしいけど、本当に理解できない。
オレには配偶者も子供もいない。
失うものは何もない。

そう思ってた。

実際は失うものなんていろいろあるんだけどね。親友とか。
だけど、その時もオレはきっと何も感じずに呆然と立ちすくむしかできないんじゃないか、って思う。

喪失を受け入れられない。

悲しいという感情を表現することができない。

涙を流すという行為ができない。

涙は、すでに涸れている。

目の前の出来事に呆然と立ちすくみ、そして落ち着いたら歩き出す。
道なき道を。
先人がさす目印すら信じられなくて道なき道を歩き続ける。

後には道ができる。

その道が正しい道かどうかを知る由はない。
ただ、オレは歩くだけ。

いったい、何を喪えばオレは泣くんだろうか。
いったい、何を喪えばオレは喪失を知るのだろうか。

手を伸ばせば届きそうで、願えばつかめそうな位置にあるけどつかめない。
つかみ方がわからない。

失ったものは多い。
元彼ですら、オレの手から離れていった。
あの手を、つかむことはできたんじゃないだろうか。

それが悔やまれて仕方がない。

悔しさ。

それが、今のオレを構成するすべて。

どうして自分には何かを守ることができないのだろうか。

それは―――オレが、自殺志願者だからか。

自分を守れない人間が、他のものを守れるわけがない。

死ぬのは怖いと言い続けるオレだけど、自分の死には焦がれている。

矛盾している。

その矛盾が、オレを形作ってるんだけど。

死とはいったいなんだろう。
心臓がその鼓動を止めて、やがて脳がその機能を喪う。
死のプロセスはそうやって流れていく。

徐々に鼓動を止めていく父様の脈をモニタで見ていた時、これで父様は楽になると思った。

厳密には父様はまず脳がその機能を喪い、その後心臓が止まった。
まあもっと厳密にいえば心臓が止まって脳がその機能を喪ったものの心臓が再び動き出し、植物状態となって3か月、耐え抜いたんだけどね。

オレは父様が植物状態になった時に諦めたんだろう。
もう肉体に魂は残っていないと諦めたんだろう。

そして、諦めたがゆえに涙は出なかったのだろう。

・・・オレってひどい娘だ。

目の前の出来事を受け入れ、諦め、惰性で生きている。

そんな存在を大切に思ってくれる人なんて、存在するはずがない・・・
posted by 蒼井 刹那 at 01:35| Comment(0) | 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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